僕が経験し感じてきたこと
~同族経営における事業承継のむずかしさ~

「お父さんが好き?」と聞かれれば、

「好きとも嫌いとも言い切れません。幼い頃から父は苦手なタイプではありました。ですが年齢を重ね、また様々な経営者に接するうち、経営者であった父を理解できる部分が徐々に増え、“父も他の経営者と同様に孤独で闘っていたのだろう“と思えるようになりました」と答えるでしょう。

現在、僕は、後悔しています。

今、僕がこうしていられるのは間違いなく父や母、それに周りの人たちのおかげだと思います。そのことにとても感謝しています。

それなのに…これまでを振り返ると、僕は父に対し申し訳ないことをしてきたと思っています。もっと柔らかい態度で父と接し、人生や経営について話をすれば良かったと激しく後悔しています。

でもそう思えるのは父が亡くなったからであって、生きていれば今でも喧嘩しているかも知れません。

生前の父とは激しくぶつかり合うことがありました。激しい言い争いをした後は、身体から力が抜け、膝から崩れ落ちる感覚に陥ることが何度かあり、その後、おへその奥の辺りがキューっとなりました。

そのような時、僕は、「事業の実態がわかり、かつ経営者家族の感情もわかる第三者に、父と僕の間に入ってもらえればありがたい…」と思っていました。

と同時に「幼少期の経験は心の深い部分に作用し、その後の人生に大きな影響を与える。それを自分一人で取り除くのは難しい」とも…

友人・知人、またお付き合いしている事業者さんの家族関係を見ていると、家族仲をこじらせているケースが多いことに気づきます。お付き合いが深まるにつれ、多くの“こじらせ”が次々と見えてくるご家族もあるほどです。

“こじらせ”はご家族の愛情が不足していても、逆に十分すぎても、発生しているようです。

ほとんどの人にとって、“こじらせ”を認識するのはつらいので、普段は心の奥底に隠しています。

しかし、何かのきっかけで表出することがある。

そして表出した“こじらせ”は時に嵐を呼びます。

“こじらせ”を風邪に例えるなら…

早めに自分が風邪であることを認識し、比較的元気なうちに薬を飲み、十分な栄養と睡眠を摂っていると次第に回復していきます。しかし手当も何もしないで一人で頑張っていると水面下で悪くなってしまう。そして気づいた時には様々な臓器を痛め、他の大きな病気となってしまうこともあります。

僕の場合は、本を読んで事例を知り、また中小企業診断士として、同族経営をされているご家族とお付き合いし、ほんの少しですけど、自分のことが客観視できたのだと思います。そして少しずつ少しずつ“こじらせ”を手放してきたのだと思います。

【父のこと】

父は、1933年(昭和8年)、ある県の山間部に生まれました。

叔父や叔母は、父のことを「とにかくやんちゃであった」と言っています。いつも外で泥まみれになり遊んでいる子供で、いじめっ子の要素もあり「田舎のガキ大将」と呼ぶにふさわしかったようです。

小学校に上がると、落ち着いて家にいることは少なく、自転車でよく遠出をしていたようです。ある日、父が両手離しをして自転車で坂道を下っていると、前方に数人の人影が見えました。それを避けようとした瞬間バランスを崩し橋の上から数メートル下の河原に落ち、内臓を強打。すぐに病院に運ばれ、損傷の激しかった左側の腎臓を摘出しました。

小学校、中学校時代は、本人曰く「勉強が出来た」とのこと。

大学時代、父は、東京の大学に進学していた兄弟たちと同じアパートの部屋で暮らしていたそうです。学校にはあまり行かず、山をいくつも持っている実家の母(僕からするとおばあちゃん)に「松茸など農産物を送って」とお願いし、送られてきた農産物をギターケースに詰め、繁華街で売りさばいていたそうです。

大学時代に一財産を得た父は、卒業後地元に戻り、一台のトラックを買って、ビールを運搬する仕事を始めます。その頃、父が出入りしていたビールメーカーは、自社工場の敷地内に配送を請け負うトラック事業者のために控室(詰所)を準備していました。その詰所には多くの一人親方(身ひとつとトラック一台で仕事をする人)が仕事を取ろうと待機しています。

今と違って飲酒運転に厳しくなかった時代。父は自分の強みである「酒の強さ」を活かし、仕事を一手に獲得することを思い立ちます。

父は詰所で待機している一人親方(ライバル)たちにお酒をすすめ、とことんまで飲ませたそうです。次第にライバルたちはベロンベロンに酔っ払い寝てしまいます。その隙に父は一手に仕事を請け負ったようです。当然自分一人では捌ききれないので、仲の良い一人親方に仕事を回し、彼らから数パーセントの手数料を取ることは忘れませんでした。

父にはちょっとした商才があるようです。その商才は父の父(僕からするとおじいちゃん)譲りだったようです。

おじいちゃんは山を複数持ち、地域の人を雇用し、山間部ではありましたが事業を拡大していきました。家でも封建的で、家長として君臨していたと聞いたことがあります。

父は仕事を始めて数年後、母とお見合い結婚をしたようです。

ここで少し母のことに触れさせて下さい。

母は経済的な理由から大学に行きませんでした。しかし息子の僕が言うのも変ですが、とても頭の良い人だったと思います。僕が中学に入ってからも、高校生になってからも勉強を教えてもらった記憶があります。

母は僕たち3人の子供(僕には兄と姉がいます)にたっぷりの愛情をかけ育ててくれました。身体が弱い母ではありましたが、家事・育児の合間にラジオ講座で英語の勉強をしたり、絵画や習字の教室に通ったりと自己研鑽を怠らない人でもありました。

おそらく結婚前後に父は創業し、父の兄と経営を始めます。その辺りの経緯について、僕は何も知らないままです。

【父との思いで】

思い起こせば、物心ついた頃より父のことが苦手でした。

稀にですが、父が休みの日、家族で食事に出かけることがありました。しかし食事をしに入った飲食店従業員に、父は失礼なことをよく言っていました。特にお酒が入ると気が大きくなるようで、散々威張り散らした挙句、従業員を見下すことがありました。

そのような光景を目にすると、幼い頃の僕は、居たたまれなくなり、心の中で「ごめんなさい」と謝ることしか出来ませんでした。

僕を含め3人の育児で疲れている、元々身体が強くない母を家事から解放させるため、そして僕自身もおいしいものが食べたいという理由から「外食したい」と望んでいましたが、その一方で「父と行動を共にしたくない」という気持ちもあり、苦しむことがありました。

僕が幼稚園か小学校低学年の頃のこと、理由は忘れましたが、父に対し異常な怒りを持ったことがあります。その時は感情に任せ応接間の窓ガラスを足で蹴って割りました。すると父に物凄い剣幕で怒られ、その後ロープで後ろ手に縛られ、庭の木に括り付けられました。いくら泣こうがわめこうが、日が落ち真っ暗になっても、許してくれることはありませんでした。日没数時間後、母がそっと僕に近寄り「とにかくお父さんに謝りなさい」と言い、僕は泣きながら父に謝った記憶があります。

僕が幼少期、父の言葉で印象的だったものが2つあります。

一つは「スパルタ教育が最強の教育法だ」というもので、もう一つが「引運努才」です。

昔はよく「スパルタ教育が最高!」と言って、僕を怒る時は、口より先に手が出ていたことがありました。

「引運努才」とは「人生を向上させたいなら、実力がある人に引っ張り上げてもらうのが一番。次に大事なのは運を持つこと。努力とか才能はほとんど関係ない」という意味らしいです。

僕が中学に上がると、父と顔を合わす時間が減りました。父は深夜まで付き合いで飲んでいることが多く、昼近くまで寝ていることが多かったのです。そのため、僕が学校に行く前や、学校から帰ってからは、父が不在で気が楽でした。

高校に進学した僕は自転車競技部に入部します。自転車競技は遠征費のほか、競技用自転車にとてもお金がかかります。しかし父は「熱中できることは良いことだ」と言い、全面的に協力してくれました。

高校時代勉強しなかった僕は「大学に行かない(行けない)。就職するか、手に職をつけるため専門学校に行く」とおぼろげに思っていました。しかし父は「大学は行った方が良い。大学に行くと視野が広がる」と教えてくれ、1年間の浪人時代を経て、東京の大学に進学させてくれました。

大学を卒業した僕は総合スーパーに就職しました。総合スーパー時代、中小企業診断士の勉強を始めましたが、僕には難しすぎて何度か挫折してしまいます。

就職して7年後、総合スーパーを退職し、実家に戻り、勉強を再開します。その間も父は言葉にしないものの僕を応援し続けてくれました。

【1回目の事業承継】

総合スーパーを退職し、実家に戻り、派遣社員をしながら中小企業診断士の勉強を再開した頃、父が父の兄弟と経営する企業群には不穏な空気が流れていたようです。その頃、企業群のトップは父の兄。父はナンバー2でした。

父の兄は癌を患っており、癌が発覚した数年後に亡くなります。

父の兄の逝去後、お家騒動が起こります。企業群各社は混乱したようです。またお家騒動に乗じコンサルタント会社が企業群に関与してきて、さらに大変な状態となったようです。

僕から見たそのころの父は「精気を失った鬼」のようでした。常に何かを考え怒っているようですが、何もしゃべらず黙っている時間が多かったと記憶しています。

その頃、父にとって企業群は居心地が悪い場所だったように思います。唯一、気が休まる場所としてはライオンズクラブがありました。ライオンズクラブの会合の日、僕が父の車を運転し、会合がある場所まで送っていくことが頻繁にありました。車中では、父が、僕の運転に注文を付け、また威張るなどしていました。僕は必死に父の話を流すようにしていましたが、それでもあの時間は苦痛以外の何物でもなかったのです。

ある日、いつものように父を助手席に乗せ運転していると、父が人を見下すことを言い始めました。息子として聞くに堪えない内容だったので、僕は車を道端に停め「あなたは裸の王様だ。あとは勝手に自分で運転して」と言い捨て、車を降り、一人歩いて帰りました。

長年企業群トップであった父の兄が逝去したことをきっかけに始まったお家騒動ですが、最終的には、父が所有していたNTT等の株を売ったお金と、母の預金で企業群の株を父が買い取り、父が企業群トップとなりました。

【企業群と僕の関わり】

僕は2005年(平成17年)中小企業診断士の資格を取得し、ご縁があり東京都新宿区にて個人事業を開業します。同時に住所も新宿区に移しそこで生活を始めました。

その頃、僕の中に「中小企業診断士の資格を取ったものの本当の意味で中小企業を知っているのか?」「このまま独立してやっていけるのか?」という思いと、「本当に父は(自分で言うほど)凄い経営者なのか?」という疑問がわいてきました。それらを確かめるべく僕は、父がトップとして経営する企業群に関わっていきます。

父の企業群に関わった7年間、平均すると1.5か月を東京都新宿区の自宅で過ごし中小企業診断士としての仕事をし、次の1.5か月を地元に戻り実家で寝泊まりし、父が経営する企業群に通うというサイクルを続けました。

僕が企業群に関与し始めた頃、企業群は6社(7事業)に縮小されていました。そのうち5社の社長は父で、残りの1社は親族が社長を務めていました。

長い企業では50年以上の社歴があり、バブルの最盛期、企業群の合計年商は97億円だったそうです。しかし、僕が関与したころは合計年商が四分の一となっていました。

中小企業では良くあることかも知れませんが、父たちは決算書の読み方が良くわかってなかったようです。そのため「売上が多ければ多いほど、利益は出ている」と思っている節がありました。

実際には、各社とも、売上も利益率も様々で、売上は少ないけれど利益率が高い企業が、赤字の企業に資金を融通している形跡が貸借対照表に見て取れました。

僕は企業群に関与し始めた当初、ITを活用しドラスティックな改革をしようと考えていましたが、経営陣および現場の抵抗もあり、それが難しいことをすぐに悟りました。

あの頃の僕は、「父を負かせてやる」という気持ちが強かったと思います。一方、父は「ガキのくせに偉そうな。ここまで50年以上、企業群を引っ張ってきたのは自分たちだ」という気持ちが強かったのだと思います。

早々にドラスティックな改革は無理だと悟ったので、足元のキャッシュを少しでも増やすために業務改善をしようと思い立ちました。そのうちの「会議を始める」「現場の実情をつかむ」「金融機関との交渉」について記述させて頂きます。

ちなみにこの3つがあれば企業の業績は上がると信じています。なぜなら会議を始め全員で危機感を共有し、現場の実情をつかみ、目標を定めて改善を行う。その一方で、資金繰りを回していけば企業は生き残っていけるはずだからです。

●会議を始める

企業群はコミュニケーションが分断され、情報共有がなされていない状況でした。情報がないため従業員には疑心暗鬼がはびこっていました。

僕は、社内の雰囲気をよくするためにコミュニケーションをとることから始めようと思いました。

「今晩、(従業員の)○○さんと飲みに行く」と父に伝えると「これを使え」とお金をくれることもありました。今思えば、父は僕に、事態打開を期待していたのかも知れません。しかし、1回や2回お酒を飲んだくらいですぐに胸襟を開いてくれることはない、そのことを思い知らされました。

企業群の雰囲気はなかなか良くなりませんでしたが、まずは各社の管理者層が現状を理解し、かつ必要な情報をタイムリーに共有するため会議を始めることにしました。「これまでしてこなかった会議を始めることにより何かが変わるかも知れない」と期待してくれた若手・女子社員もいました。

しかし、その期待は裏切られることになります。会議を始めても、すぐに話題があらぬ方向に転換し、肝心な資金繰りや業務改善に話が及ばなかったからです。

そこで僕は

・毎週決まった曜日、時間に会議をはじめ、定着させる

・僕が司会進行役になる(軌道に乗れば、他の人に司会進行してもらうことを想定)

・会議に集中してもらうために、プロジェクターを使う、紙の資料を準備する

・ダラダラしないため会議の終了時間を決める

・会議の2、3日前、参加者に議題を示し、予め考えておいてもらう

・黒板やホワイトボードに良い意見を書き出し、「見える化」する

・若手従業員や女性従業員を指名し、意見を聞く

・「誰が、いつまでに、何をやるのか」まで決めるよう促す

・会議で決まったことは後日回覧板を回し、回覧する

ようにしました。

しかし、これも長く続きません。僕が東京に戻っている間は、集まる事さえしなかったそうです。父に「何故会議をしないの?」と聞くと、「そんなことをしても意味はない。時間の無駄。こちらから話すことはない」と一蹴されました。

●現場の実情をつかむ

僕は「現場を理解しなければ業績向上は図れない」と思っています。ある日、父に「業績向上のために現場を見に行く」と伝えました。しかし父はいい顔をしませんでした。僕が各社の現場を見に行った後、文句を言うと考えたのだと推測しています。

しかし、それでも現場に行くことにしました。

現場に行く前、まずは本社の事務所で訪問する企業の決算書および試算表の分析をしました。貸借対照表、損益計算書の推移を見ていると様々な疑問が浮かんできます。

例えば

「在庫の持ち方ってこれで大丈夫なのか?」

「売掛金が増加している。資金回収は滞りなく出来ているのか?」

「なぜ売上がこんなに変動しているのだろう?」

「顧客別の利益率はどのようなものか?」

等です。

それらを確かめるべく、各社従業員の話を聞いたり、伝票を繰るなどしました。

その他、営業担当者と営業に出たり、製造現場で一緒に働くなどもしました。

すると課題が山のように見え始めます。それと同時に僕の中に改善策が浮かび上がってきます。それを本社に持ち帰り父たちに伝えるのですが、うまく伝わりません。現場の写真をプロジェクターで映し出し見てもらっても、図や表を用い作成した資料で説明してもダメでした。

僕は「違うアプローチをしなくてはダメなのか」と考え、コーチングの要領を用いて問いかけましたが、結局前向きな会話は出来ませんでした。

僕は父たちに接する時、生意気な顔をしていた自覚があります。対して、父は「生意気なガキ(僕のこと)が何か言っている。こんなガキの言うことなんか聞けるか」という意識が強かったのかも知れません。企業群に関与した7年間、色々なことを提案してきましたが、ほとんど聞いてもらえませんでした。

このことより経営者と後継者のみならず、経営者とコンサルタントの関係でも言えることだと思いますが、信頼関係の上に成り立つ「互いを尊重し理解する気持ち」がなければ、協力して企業を良い方向に向けることは不可能だと思い知りました。

●金融機関との交渉

2008年リーマンショックが起こります。当企業群は資金繰りが厳しく、2か月に1回、数千万円を調達しないと資金ショートを起こしてしまう状態でした。

前述したように父たちは正確に財務諸表を読むことは出来ないようでした。そのため金融機関担当者と話をしていても、話題が数字のことになると接点を見出すことが出来ません。そこで、自然の流れとして、親族ではない経理部長と僕が金融機関との窓口となりました。

非常に資金繰りが忙しかった頃、僕が東京から地元に戻る度に、経理部長と一緒に金融機関に状況説明と融資のお願いに伺いました。

当時、企業群に関与頂いていた財務コンサルタントや顧問税理士に協力して頂き、経理部長と僕は3~5年後の収支予想(中期経営計画)を作るなどしました。そして苦労して作り上げた中期経営計画を父たちに見せるのですが、いつも「適当なものを金融機関に出しておいてくれ」と言われるだけでした。

我々は鉛筆なめなめの意味のない作業に時間を費やし、金融機関等の職員は、経営者の意思が全く反映されていない数字についてコメントを繰り返していました。どれもこれも不毛だと思います。

しかし、僕たちは、そんな不毛な作業を飽きもせず続け、資金を繋ぐため金融機関等に通い続けました。

今思うと、あの日々は胃が痛くなることも多く、眠れない夜が続きました。そのような時は深夜、実家から20分歩いたところにある牛丼チェーンに行き、牛皿をあてにビールを飲むなどしていました。

【継ごうと思ったが断念】

依然としてなかなか厳しい状況が続いていましたが「僕が企業群を継いで、先頭に立ち企業群を立ちなおそう」と思うようになりました。それは、業績向上へのストーリーを描きつつあったこと、従業員・取引先等に迷惑をかけたくなかったこと、それに担保に取られている実家を守ることを考えたからです。

しかし父は来社した金融機関担当者の前で僕を指し「こいつはダメだ!後継者になんかしない!入社なんかさせない!」と言い放ってしまいました。当時父は77歳くらいだったと思いますが、プライド高く、自分に物申す人間を許さないところがありました。

【父の変化】

僕の幼少期、企業群はイケイケ・ドンドンで大きくなっており、父は暴君のように振舞い、基本的には強気な態度を堅持し続けました。しかし売上が長期低迷し、資金繰りに窮していたこの頃、時折優しい顔、弱気な顔を見せるようになりました。

ある日の夕方、本社事務所で父と顔を合わせると「今から家に帰る。一緒に帰るか?」と聞いてきました。「うん」と僕が答えると、「運転してくれ」と車のキーを渡されました。

僕が運転していると、助手席に座っていた父が「今日もお母さんは身体が辛いと思う。スーパーに寄って、弁当か何か買って帰ろう」と言いました。

この言葉にはビックリしました。父がこんな言葉を口にするとは思わなかったからです。これまでスーパーに行くことなんてなかった父。それが駐車場に車を停めると、自ら進んでスーパーの自動ドアに向かって歩き始めます。その背中が心なしか小さく見えました。

また別日、父がぼそっと「なんでみんな、わしばっかり責めるんじゃ」と言いました。その時、僕は「企業群トップだから当然でしょう」と思い、取り合いませんでした。

そのことを後日母に言うと「お父さんは色々責められているみたいだね」と言い、続けて「自分にとって相手の嫌な部分・気に入らない部分が49あるとするじゃない。でも残りが51だったら、許せる感じがしない?」と言いました。

その時は、何だか母にはぐらかされたような気持ちになりました。

話しはいきなり変わります。我が国の経済成長率についてです。

1956年~1973年の平均は9.1%です。

1974年~1990年では4.2%、

1991年~1920年は0.7%です。

僕は1967年(昭和42年)生まれですので、僕の幼少期は経済成長率が高いことがわかります。その頃きっと企業群は事業を拡大させており、父も天狗になっていたのだと思います。
(今ならわかりますが、どんな人でも他人からちやほやされると天狗になると思います)

それが、僕が企業群に関わった頃には、もはや経済はほとんど成長していません。逆にマイナス成長の年も散見されます。次第に父が弱気になったことも理解できます。

【父そして企業群との決別】

少し優しくなったものの、相変わらず父と顔を合わせれば喧嘩の日々。夕食時、実家ではお互いが鬼の形相で食事をしていたと思います。間を取り持とうと明るく振舞う母にはとても申し訳ないことをしてきたと思っています。

次第に、僕は、企業群に関与するのがバカらしくなってきました。

とはいえ、企業群が不渡りを出してしまうと、周囲に多大な迷惑をかけてしまいます。僕の中にも、従業員・取引先に迷惑をかけたくないという気持ちは当然あったのですが、それよりも「父に会いたくない」という気持ちが勝ってきました。

ある日、デューデリジェンス(資産査定)後の貸借対照表を眺めているとある考えが浮かんできました。それは「もう企業群の業績改善のための努力は止めよう。改善しようとすればするほど父と喧嘩してしまう。そのうち僕の気持ちが持たなくなる。そんなことより企業群が持っている土地を売って、再度実家を金融機関の担保から抜こう」と考えました。

そしてすったもんだの末、何とか土地を売り、実家を担保から抜くことに成功しました。
(担保を抜く10年近く前、実家の土地・建物の名義は父から母に変えてありました)

その後のある日、父と僕は、これまでにないくらいの激しい言い争いをしてしまいます。相手がどれほど傷つくか全く考えず、お互いが口にしてはいけない言葉ばかりをわざと口に出してしまいました。

喧嘩の途中、僕は顔が赤くなっている自分を自覚したほどです。台所で言い争いをしたのですが、体の末端から血の気が失せ、テーブルに手をつかなければ真っすぐ立っていられないほどでした。あんな感覚・気持ちになったのは初めてです。

後にも先にもあそこまで他人に対し敵意をむき出しにしたことはありません。
その日の深夜、もうこれ以上父と言い争っても無駄だと思い「もう金輪際実家に帰らない」と決意しました。

【2回目の事業承継】

実家に帰らないようになって4か月ほど経ち、東京で仕事をしている僕の身体に異変が生じました。新宿区の病院で調べてみると右側の腎臓に癌が出来ていることが発覚しました。父は左側の腎臓を子供の時摘出していましたので、その時は「僕の右側腎臓で良かった」と呑気に思いました。僕の癌が発覚したその日の夜、父が急性大動脈解離で急逝しました。何の前触れもなく、ほとんど苦しむことなく一瞬でこの世を去りました。

父の葬儀後、僕たち家族(母・兄・姉それに僕)は相続放棄をしました。金融機関借入に伴う父の個人保証があったためです。

相続放棄の手続きが終わった後、僕は癌に侵された右側腎臓の摘出手術を受けました。

その頃の母は憔悴しきっていました。特に若い頃、母は父に色々なことを言われてきたはず。しかし母は父の死を本気で悲しんでいました。その姿を見て、母は愛情を持って父に接していたのだと確信しました。

前回に引き続き今回も事業承継の準備をしていなかったので、企業群トップの父が亡くなってから、再度お家騒動が勃発します。

【母に続いて兄の死で考えるようになったこと】

父が急逝し、その数年後、母が亡くなります。母が亡くなった1年後、兄までも亡くなりました。
(母も兄も全身癌です)

人は死ぬ。これは間違いないことのようです。

死を意識することは決してネガティブなことだけではないと思います。死を意識するからこそ今を考えられるようになれるからです。

最近になって僕は、成長したと感じられた時のことを思い出します。

それは大学浪人時代、中小企業診断士の受験時代、企業群に関わっていた時代のことです。そこを通過したおかげで、僕は次の扉を開けることが出来ました。

その時は必ず父や母、それに周りの人々が僕を見守り応援してくれました。

【事業承継を控えている経営者様へ】

同族経営における事業承継は難しいと僕自身の経験からも思います。

「事業そのもの」「家族(親族)ならではのどうしても抑えることが出来ない感情」それに「お金」が複雑に絡み合い、ついつい事業承継について考えることを避けようとしてしまいがちです。いざ取り組んだとしても問題は尽きません。

しかし、経営者は
「将来、事業をどうしたいのか?」
「家族(親族)にはどのようになってもらいたいか?」
「自分の大切な人に何を残せるのか?」
を考え未来への準備を進めて頂ければと思います。

【追記】

経営者は本質的には孤独だと思います。他人に理解されなくても最終的には全責任を負い、一人になったとしても立ち向かっていかなければなりません。父は自分で自分を鼓舞しなければやっていられなかったのかもしれないと今の僕は思います。そのために強がり、威張りまくってしまった。それを原動力に企業群を成長させてきた。

しかし、世の中が変わり、従業員の意識が変わり、マネジメントのやり方が変わり、また、家族それぞれの状況・心持ちも変わる。父は変化することができたのだろうかと今も考えています。

「変化すること」は次の扉を開けること。