腎臓がん術後検診の帰り道、思ったこと
■
僕が父の経営する企業群に
関わった7年間
父とは喧嘩ばかりしていました。
その頃の感情は
なかなか表現しづらいです。
当時つけていた日記を繰りながら
ゆっくりゆっくり時間をかけ
整理したとしても、
未だ無理かも知れません。
■
平成24年11月のこと、
実家にて、
父とこれまでにないくらいの
激しい喧嘩をしてしまいました。
お互い怒号を発しました。
父は頭に血が上ったようで
顔は真っ赤になっており、
鬼のような形相で
僕を睨みつけていました。
それに応じるかのように
僕は「もう知るか!」と
吐き捨てました。
そして
「もう二度と広島に帰らない。
あなたが死んでも帰ってこない」
とまで言ってしまいました。
その時の僕はわなわなと震え、
怒りで頬の筋肉がピクピクと
動いていたのを覚えています。
■
実は当時、
父が経営する企業群は
非常に厳しい経営状態に
ありました。
そのため
金融機関のすすめもあり、
顧問税理士の先生や
事業再生にお詳しい税理士資格を
有す金融機関出身のコンサルタントの
先生に支援をお願いしていました。
お二人の先生には
公私にわたって非常によく
して頂きました。
■
しかし…
僕は正直
家族・親族の感情(考え方)が
現在の窮状を招いている。
事業計画書を書いて
資金繰りに走り回る前に
『何故、現状に至ったか?』
を考え抜いた上で、
現状に陥った要因を
取り除かなければ
また同じことになる!
と思っていました。
■
とはいえ、
当時より中小企業診断士の資格は
持っていましたが
僕は親族(いわゆる渦中の人)。
怒りにかられた僕が客観的視点より
現状(全体像)を把握することは無理。
なので
「お金のこと」は元より
「事業のこと」および
家族・親族間の「感情のこと」が
理解できる第三者(コンサル)に
手を貸してほしい
と切に願っていました。
■
さて、さて、
時計の針を少し進めて…
父と大喧嘩をして3か月後の
平成25年3月1日の午前中
僕が当時より住んでいる
東京都新宿区の
とある病院の診察室にて、
僕は、
僕の腹部のCT画像を見せられながら
「これが腎臓にできた癌ですね」
とお医者さんより告げられました。
PC画面に白く映る
癌細胞をぼ~っと見ながら
「まあ、治さなきゃいかんな」
と他人事のように思っていました。
■
その日の午後は仕事の
打ち合わせがありました。
打ち合わせ時も特に取り乱すことなく、
また誰にも癌であることを明かさず、
淡々とスケジュールをこなしました。
打ち合わせが終わると
飲みに流れました。
ひとしきり飲んだ後、
店を出ると
激しく雨が降っていました。
路面に打ち付けられた雨が
足元を濡らします。
「駅まで歩くのが嫌だな~」
と思いはじめた時、
甥っ子からの着信に気づき、
折り返しの電話をしたところ
父が亡くなったことを告げられました。
■
平成25年3月1日に起こった
出来事に関して…
不思議なことが3つありました。
一つ目は
僕のがん発覚と父の死が
同じ日に起こったことです。
二つ目は
腎臓という臓器に関してです。
腎臓は「物言わぬ臓器」と
言われており、
痛みを発しないそうです。
しかし腹部に違和感を
感じていた僕は
近所の病院に行きCTを
撮ってもらいました。
それで癌が発覚しました。
三つめは
父は子供のころ
事故で左側の腎臓を提出しています。
そして僕は右側の腎臓に
癌が出来ました。
これらは
どういうことでしょうか。
何か意味があったのでしょうか。
■
時計の針を現在に合わせます。
令和5年1月、
僕は右腎臓を癌細胞とともに
摘出して頂いた
慶応大学病院で術後検診の
結果を聞いてきました。
結果は
血液検査においても
CT検査においても
「異常なし」です。
■
心底ありがたいことと思います。
と同時に
父や僕と同じような思いをしている
同族経営のご家族が
いることにも思いを馳せます。
■
昔の父や僕、
および僕の家族のような方々を
(おこがましいですが)
側面から支援できる仕事を
していきたいと思っています。
P.S.
今では父に対して
全く怒りを感じてません。
逆に感謝しています。
父のおかげで
ここまで成長できましたし、
生の経営の現場というものを
経験することができました。
資金繰りで眠れない日も
多かったですが
貴重な経験でした。
50年経営をやってきた
父にしてみれば
僕はかわいくない時も
あったけれど…
時には頼りにしてくれた
ようにも思います。
実際、経営に対し
「お前はどう思う?」と
何度か聞かれました。
今となっては
僕の方がもっと素直になり
色々なことを教えてもらう
態度でいたなら…
と考えなくもありません。
【腎臓がん術後検診の帰り道、思ったこと】
■
僕が父の経営する企業群に
関わった7年間
父とは喧嘩ばかりしていました。
その頃の感情は
なかなか表現しづらいです。
当時つけていた日記を繰りながら
ゆっくりゆっくり時間をかけ
整理したとしても、
未だ無理かも知れません。
■
平成24年11月のこと、
実家にて、
父とこれまでにないくらいの
激しい喧嘩をしてしまいました。
お互い怒号を発しました。
父は頭に血が上ったようで
顔は真っ赤になっており、
鬼のような形相で
僕を睨みつけていました。
それに応じるかのように
僕は「もう知るか!」と
吐き捨てました。
そして
「もう二度と広島に帰らない。
あなたが死んでも帰ってこない」
とまで言ってしまいました。
その時の僕はわなわなと震え、
怒りで頬の筋肉がピクピクと
動いていたのを覚えています。
■
実は当時、
父が経営する企業群は
非常に厳しい経営状態に
ありました。
そのため
金融機関のすすめもあり、
顧問税理士の先生や
事業再生にお詳しい税理士資格を
有す金融機関出身のコンサルタントの
先生に支援をお願いしていました。
お二人の先生には
公私にわたって非常によく
して頂きました。
■
しかし…
僕は正直
家族・親族の感情(考え方)が
現在の窮状を招いている。
事業計画書を書いて
資金繰りに走り回る前に
『何故、現状に至ったか?』
を考え抜いた上で、
現状に陥った要因を
取り除かなければ
また同じことになる!
と思っていました。
■
とはいえ、
当時より中小企業診断士の資格は
持っていましたが
僕は親族(いわゆる渦中の人)。
怒りにかられた僕が客観的視点より
現状(全体像)を把握することは無理。
なので
「お金のこと」は元より
「事業のこと」および
家族・親族間の「感情のこと」が
理解できる第三者(コンサル)に
手を貸してほしい
と切に願っていました。
■
さて、さて、
時計の針を少し進めて…
父と大喧嘩をして3か月後の
平成25年3月1日の午前中
僕が当時より住んでいる
東京都新宿区の
とある病院の診察室にて、
僕は、
僕の腹部のCT画像を見せられながら
「これが腎臓にできた癌ですね」
とお医者さんより告げられました。
PC画面に白く映る
癌細胞をぼ~っと見ながら
「まあ、治さなきゃいかんな」
と他人事のように思っていました。
■
その日の午後は仕事の
打ち合わせがありました。
打ち合わせ時も特に取り乱すことなく、
また誰にも癌であることを明かさず、
淡々とスケジュールをこなしました。
打ち合わせが終わると
飲みに流れました。
ひとしきり飲んだ後、
店を出ると
激しく雨が降っていました。
路面に打ち付けられた雨が
足元を濡らします。
「駅まで歩くのが嫌だな~」
と思いはじめた時、
甥っ子からの着信に気づき、
折り返しの電話をしたところ
父が亡くなったことを告げられました。
■
平成25年3月1日に起こった
出来事に関して…
不思議なことが3つありました。
一つ目は
僕のがん発覚と父の死が
同じ日に起こったことです。
二つ目は
腎臓という臓器に関してです。
腎臓は「物言わぬ臓器」と
言われており、
痛みを発しないそうです。
しかし腹部に違和感を
感じていた僕は
近所の病院に行きCTを
撮ってもらいました。
それで癌が発覚しました。
三つめは
父は子供のころ
事故で左側の腎臓を提出しています。
そして僕は右側の腎臓に
癌が出来ました。
これらは
どういうことでしょうか。
何か意味があったのでしょうか。
■
時計の針を現在に合わせます。
令和5年1月、
僕は右腎臓を癌細胞とともに
摘出して頂いた
慶応大学病院で術後検診の
結果を聞いてきました。
結果は
血液検査においても
CT検査においても
「異常なし」です。
■
心底ありがたいことと思います。
と同時に
父や僕と同じような思いをしている
同族経営のご家族が
いることにも思いを馳せます。
■
昔の父や僕、
および僕の家族のような方々を
(おこがましいですが)
側面から支援できる仕事を
していきたいと思っています。
P.S.
今では父に対して
全く怒りを感じてません。
逆に感謝しています。
父のおかげで
ここまで成長できましたし、
生の経営の現場というものを
経験することができました。
資金繰りで眠れない日も
多かったですが
貴重な経験でした。
50年経営をやってきた
父にしてみれば
僕はかわいくない時も
あったけれど…
時には頼りにしてくれた
ようにも思います。
実際、経営に対し
「お前はどう思う?」と
何度か聞かれました。
今となっては
僕の方がもっと素直になり
色々なことを教えてもらう
態度でいたなら…
と考えなくもありません。